働く喜び 結婚の喜び 園の贈りもの
今回の「園長コラム」も前回に続き、園生に登場してもらおうと思います。川俣泰三さん(仮名)です。彼が陥ったのは遊興の果ての借金地獄。20数年前、見るに見かねた親戚に手を引っ張られ、学園にやって来ました。最初は生きる気力に欠けていましたが、ほどなく仕事熱心な姿を見せ始めました。仕事の場所は学園の厨房でした。ある出会いが彼を立ち直らせたのです。一方でつらい人生の決断もしました。詳しくは川俣さん本人に語ってもらいましょう。
飲めない酒で借金地獄
園生の川俣泰三です。私は学園に来る前は愛知県にいました。最初に自動車関係の会社に勤め、次に料理関係の仕事に就きました。毎日ストレスがたまりっぱなしで、その憂さを晴らそうと、お酒も飲めないくせにスナックやキャバクラに行っては散財していました。店のおねえさん達が私の愚痴を聞いてくれるのがうれしかったからです。
働いて得たお金はもっぱらそんな遊びに使い果たし、そのうちサラ金から借金してまで通うようになりました。良くないとは分かっていても、どうしてもやめられませんでした。母ひとり、子一人の家庭でしたが、毎日借金取りに追われ、大事な家の土地も手放すはめになりました。お金を借りた中に暴力団組員もいて、自分に1億円の保険金がかけられたりもしました。もし学園に来なかったら、財産どころか命すらなかったかもしれません。
自堕落で身も心もぼろぼろ、そして親不孝な私に母方のおじが激しく怒りました。私を甘やかした母も怒りの対象になってしまいました。おじの娘、つまり私のいとこがインターネットで心道学園の存在を知り、私は連れてこられました。もう私は人生がめちゃくちゃになっていましたし、自分で自分の面倒が見られない状態でしたから、学園に送られるのは仕方のないことだと思いました。
「親父にも食べさせたかった」
学園では日課のお経に慣れず、もやもやした日が続きました。半年ぐらいたったころ、「ここの厨房で料理の仕事をしたい」と希望しました。「料理の仕事に回されればお経とおさらばできて、学園から出られるかもしれない」と考えたのです。
願いはほどなく認められました。もちろんうれしかったのですが、いざ厨房での仕事を始めると、「逃げよう」という心境に変化が起きました。厨房で働いていた学園スタッフの市毛さん(仮名)と野村さん(同)の賄いの食事を私が作るようなったことがきっかけでした。
市毛さんは糖尿病を患い、メニューは3食とも野菜のボイルが中心でした。私の父は私が学園に来る前に亡くなっていたのですが、難病を患っていました。筋肉が萎縮してしまう病気で、口で食べることもできず、管で流動食を胃に直接流しこんで栄養を摂っていました。
そんな父と市毛さんが同い年だったのです。毎日、市毛さんに食事を作ってあげているうち、「親父が生きている時にこんな風に食べさせてあげたかった」と思うようになり、だんだん市毛さんの食事作りが生前果たせなかった親孝行代わりになっていったのです。
「料理はみんなで作るもの」
そんな市毛さんも残念ながら数年前に亡くなってしまいました。野村さんは市毛さんの義理の弟です。野村さんに私の料理の味を見てもらうと、いつも「川俣君。私の口に合うよ」と褒めてくれます。市毛さんはいなくなってしまいましたが、野村さんのここでの最後の勤務の日まで食事を作ってあげたいです。
園生に出す料理も作っています。味は園生仲間から希望を聞いて決めます。他のスタッフさんからも「ああした方がいい。こうした方がもっとおいしくなる」なんて教わったり、テレビの料理番組を見たりして、料理のレパートリーを増やしています。みんなからお世辞でも「おいしかったよ」と言われると、とても励みになります。
入園前は、料理はお金を得るための手段に過ぎませんでした。お客さんから「おいしい」なんて言われたこともありませんでした。そのせいか、私自身も味にさほど関心はありませんでした。でもここに来て、「料理はみんなの協力でできるもの。おいしくなるもの」と知りました。料理に対する考えが根本から変わりました。
「生まれてくる子のために…」
入園7年目、年下の女性園生と結婚しました。優しいところが好きで、おしゃべりしていて「いい人だ。一緒になりたい」と思い、お上人様や園長を通して気持ちを伝えました。幸い、結婚に同意してくれました。
結婚式は園で開いてもらいました。2人でケーキカットしたことがとてもいい思い出です。私が学園の外で結婚を望んでも、相手を見つけるなんてとても無理。そんな自分が結婚できたのも亡き合田お上人様や園長先生のおかげだと深く感謝しました。
でも間もなく離婚しました。当時、私は45歳でした。妻のおなかの中には子どもがいたのですが、自分には育てる力はありません。だから「生まれてくる子のためには別れた方がいい。妻も他に立派な人を見つけてほしい。その人と二人で子どもを育ててもらったほうが、子どもも幸せなのだから」と考え、我が子の顔を見る前に別れました。
生まれてきたのは女の子と聞きました。風のうわさでは妻も再婚し、娘も新しい家庭の中で愛情たっぷりに育てられたようです。もう中学生になったくらいでしょうか。娘が二十歳になったころに会ってみたいです。
でも今の私には娘に会う資格はありません。私が一人前の大人になって初めて資格を手にできるのだと思います。そんな理由もあって「これからも学園でもっと頑張らなくては。しっかりしなくては」と常々自分に言い聞かせています。
川俣さん夫婦の結婚式のことは私も学園のみんなもよく覚えています。学園支援者の粋な計らいで、ここに有名パティシエにやって来て豪華なウエディングケーキを作ってくださいました。それは素晴らしい式と披露宴でした。
夫婦は子宝にも恵まれました。でも川俣さんは自ら悲しい決断をしました。本人が言うように学園に来る前は親不孝ばかりしていたのが、自分が親になって初めて親のありがたみに気づき、だからこそわが子の幸せを第一に考えて身を引いたのでしょう。川俣さん親子が再会する日が来てほしいと切に願っています。