今日、学園と私があるのも園生のおかげ

「来る者拒まず」人を助けて半世紀

私の夫で学園の初代理事長を務めた合田正が学園の前身「佛祥庵」を静岡県富士市に構えたのが昭和49年、つまり1974年ですから、あれからほぼ半世紀の年月がたったわけです。

僧籍もあった夫は「お上人」と呼ばれ、佛祥庵以来、2009年9月に亡くなるまで、すべてを投げうって人助けに没入しました。お上人と結婚した私も、かつてお上人に救いを求めた一人でした。以来、お上人の人助け行脚について行き、今日に至りました。

親兄弟から見捨てられたり社会に溶け込めなかったりして、どこにも行き場を失った人たちを、たとえ一文なしでも受け入れました。認知症の人でも体の自由のきかない人でも引きこもりの人でも犯罪歴がある人でも、「来る者は拒まず」どころか、困っている人はこちらから探し出して助けました。

マスコミに取り上げられたりもして、一時期、その数が400人近くに膨れ上がったこともありました。信じてもらえないかもしれませんが、全員がお上人のもと、一つ屋根の下に暮らし、同じ釜の飯を食べていたわけです。みんな分け隔てなく、助け合っていたのです。

かつては脱走騒ぎもありましたし、火事も出しました。仲間同士のトラブルはもちろん、裁判沙汰やカルト教団との対決も経験しました。

財布が空でもお構いなし「生きるか死ぬかの問題だ!」 

台所だって火の車どころではありませんでした。財布を預かる私はたびたびお上人に「もうお金が尽きました。借金が膨らむばかりです」と泣きながら訴えましたが、お上人はまったく意に介しませんでした。それどころか「お金の問題じゃない。人間が生きるか死ぬかの問題なんだ!」と怒鳴りつけられました。時には世間から冷たい視線も浴び、私は何かも放り出して逃げたくなりました。

お上人だって数えきれないほど辛い思いをしたはずです。それでもお上人は「私が理解されないのは私の精進が足りないからだ。もっと命がけで人を助けなければ」と自分を叱るような人でした。どんな苦難にあっても「無私の精神」が揺るぐことはなかったのです。そんなお上人に私は「妻として連れ添った」というより、弟子として精一杯ついて行くだけでした。

「園生にはうまいものを」「こちらが感謝の気持ちで」

今年はお上人の十三回忌の年でしたが、お上人の言葉が私の耳から消えることはありませんでした。たとえば「園生にはうまいものを食べさせろ。本物を教えろ。あとは糞させて寝かせておけ。そうすればおのずと道は開ける」「病気の『病』は病院、医者が治す。『気』は私たちが治す」

「『人のお世話をしている』なんて露も思ってはならない。『お世話をさせてもらっている』と、こちらが感謝の気持ちを持ちなさい」「自由ばかり、わがままばかりでは人間は病気になる。ここは我慢と忍耐力を覚えるところ」「反省できる人間は救われる。反省できないといつまでも自分が見つからない」。

ほかにも「親も子も環境を変えることが大事。家の中にどっぷりつかっていると、親も子もどっちも駄目になる」「病人や障がい者に人権があるのは当然だが、家族にも人権はある。家族だって救われなきゃいかん」と話していました。

まだまだ書ききれないくらい言葉を遺してくれました。人の自立更生に携わる者としては少々乱暴で、誤解を招くような内容もありますが、今、私が学園の運営で困ったときは「お上人だったら、こんなときどうするだろう」と、その言葉を頭の中で蘇らせながら思案します。

たくさんの出会いと応援「人は縁で生かされている」

もちろん、私たち夫婦の力だけで今日を迎えられたのではありません。多くの人からの物心両面の応援がありました。

たとえば、著名な精神科医の故・小田晋先生も貴重な協力を頂戴したお一人です。私たちが学園を開いたときからのご縁で、初めて来園された時の感想は「合田さんのやっていることは 30 年先を行っているね」でした。とても励みになりました。私は「こんな偉い先生に分かってもらえた。やっぱりこの道に間違いはなかったんだ」と歓喜しました。

以来、小田先生には定期的に来ていただき、園生を診てもらいました。また先生のおかげで、内科などほかの先生方もここを往診してくれるようになりました。

ボランティアの皆さんにも何度も助けられました。誰もが「お上人のおかげで今日の私がある」「家族が平和に暮らしていられるのもお上人の助けがあったからこそ」という人たちです。彼らもお上人が私に遺してくれたかけがえのない財産です。

いろいろな経験と出会いから、「人はご縁で生かされている。いつもご縁を大切におしなくては」と思い、常に自分に言い聞かせています。「自分も縁ある人のお役に立とう」と思うことが大事です。「縁あってこその今の自分。人の役に立ってこそ将来の自分」なのですから。そういえばお上人も「お役、お役」が口癖でした。「周りの人の役にたちなさい」という意味です。

画期的な園内介護「園生の頑張りに頭が下がる」 

縁という点では、学園で園生をホームヘルパーにした介護サービス事業を始めたきっかけも、お上人のケアマネジャーだった方の発案でした。事業の責任者もかつて学園にご子息を預けられた人に務めてもらっています。施設の助け合いの中に介護ビジネスを採り入れるなんていう発想は、私ではとても生まれませんし、思いついたとしても実行できません。これもやっぱりご縁の産物です。

もちろん、事業を維持できているのは園生ヘルパーの頑張りがあってこそ。資格を取るための勉強も大変だったはずですが、誰一人、脱落者は出ませんでした。なにより、園内で理想の介護が実現したうえ、介護する方とされる方が一層強い感謝の絆で結ばれたことがうれしくてなりません。彼らの頑張りには本当に頭が下がります。

実を言うと、当の私は計画らしい計画など持たずに学園を経営してきました。自分に自信があるわけではありません。困ったときは「お上人。どうしましょう」ですし。でもその答えを待つまでもなく、必ず周囲のだれかが私に救いの手を差し伸べてくれました。

寝ても覚めても園生 天から「ようやくわかったな」

私が考えていることは、園生一人ひとりをどうやって自立させるか、だけです。24時間、寝ても覚めてもそのことばかりを思いを巡らせてしまいます。私たち夫婦に子どもはいませんが、園生一人ひとりが我が子だと思っています。家庭から離れて暮らす彼らにとっても、お上人は父親代わり、私は母親代わりなのだと思います。

気が付くと私も80歳になっていました。一気呵成の50年でした。「ここらで一区切りつけたいなあ」と望むときもあります。でも、決まって次の瞬間には「あ、そうだ。あの子にしてあげることがあった」とこまごました用事が浮かび、いそいそと動き出しています。

そんな自分がおかしくもありますが、園生の笑顔を見るたびに「やっぱり私は園生と生きているんだ。園生のおかげで今日まで走ってこられたんだ」と実感します。こんなこと言うと、「ようやくお前もわかったようだな」と天からお上人の笑い声が聞こえてきそうです。

昭和、平成を経て令和に。学園もこれからの時代に沿った道を探る時が来たのかもしれません。どうすればいいのかまだ分かりません。ただ難しい岐路に立たされても、必ず新たな光が私に進むべき方向を示してくれるものと信じています。(2022年談)